“建築のフィールドミュージアム”としての魅力を醸成する
奈良県
近畿地方 奈良県奈良市
奈良公園周辺は、世界遺産である社寺をはじめ、文化財が多く存在する歴史ある観光地ですが、それゆえの課題もあるようです。今回は、奈良市旅館・ホテル組合のみなさんと、申請主体として計画を統括した奈良県奈良公園室の池田勝室長補佐にお話をうかがいました。

客室改修を行った〈ホテルニューわかさ〉の展望レストランから、東大寺・奈良公園・若草山が一望できる。
古代からの歴史が息づくまち、奈良
歴史的建造物が多いことから修学旅行の目的地に選ばれることも多い古都・奈良。奈良公園は、明治時代に開設された古い公園のひとつで、周辺には、春日大社や興福寺、東大寺、元興寺、春日山原始林などの世界遺産があります。

奈良市旅館・ホテル組合の川井徳子副組合長。「薬師寺や興福寺、平城宮などの建造物が身近にある組合員にとって、おもてなしによって奈良の伝統を伝えることは暗黙知」と語る。
奈良市旅館・ホテル組合の川井徳子副組合長は、そんな奈良公園周辺の宿泊施設が抱える課題について次のように話します。
「日本全国に鉄道が整備され始めた明治時代頃から、奈良を訪れる観光客の6割が修学旅行生です。こうした背景もあって、宿泊施設は団体旅行向けの仕様が多く、それ以外のマーケティングをあまり行ってこなかったことは否めません」

奈良市旅館・ホテル組合の下谷幸司組合長。
また、下谷幸司組合長は、「奈良市を訪れる多くの方は、東大寺の大仏様と鹿を見て帰ってしまいます。奈良市から30~40分圏内の、京都や大阪で宿泊しているようです」と、奈良市に来る観光客の1割ほどしか宿泊に結びついていないことを苦心しています。
そこで同組合は、奈良での滞在時間を伸ばし宿泊につなげるため、奈良全体の魅力向上を目指し、令和3・4年度の事業それぞれに手をあげました。
「計画に参加された組合員さんは、奈良公園周辺に所在し、それぞれが歴史的背景を有します。そこで、“奈良1300年の歴史”というテーマを軸に一体となり、みなさんと一緒にコンセプトを考えました」と話すのは、奈良県奈良公園室の池田勝室長補佐です。

奈良県奈良公園室室長補佐の池田勝さん。
「奈良には天平時代から江戸時代までの伝統建築物や、現在まで途切れることなく1300年にわたって引き継がれる儀式や祭礼があります。さらに、奈良公園周辺を散策すると、飛鳥時代以前に築かれた古墳、奈良時代に建てられた東大寺法華堂、鎌倉時代に建てられた南大門、江戸時代から明治時代に建てられた民家が並ぶ“ならまち”など、多様な年代の建築を一堂に見ることができます。そんな観光地は、日本全国を見渡しても唯一だと思います」(池田さん)
川井副組合長は、日本の伝統建築をユネスコの世界文化遺産に登録するため、「伝統を未来につなげる会」として10年あまり活動。その経験やネットワークを生かし、建築、ホテル・旅館事業者、商工会議所など多くの組織をつなぐ役目を担いました。
そして、さまざまな時代の建築が集まった「建築のフィールドミュージアム」としての魅力を高め、奈良に滞在する期間の長期化を目指す取り組みを始めたのです。
まず川井副組合長は、旅館・ホテル組合員や商工会議所との合意形成に向け、計画のコンセプトである建築フィールドミュージアムの認識を合わせるため、奈良女子大学工学部学部長の藤田盟児教授の協力を得て、東大寺境内で建築様式を学ぶフィールドワークなどを実施しました。
「1300年の歴史を、建築とSDGsという観点で人々に発信していくことは、奈良にあるホテル・旅館が担う役目だと思っています。そのなかで、木材や伝統建築の技・意匠を取り入れた改修を行う方向にまとまったのは、ごく自然な流れでした」と川井副組合長は振り返ります。
〈旅館松前〉の女将でもあり書道家の柳井尚美さんは、今回の活動に参加する事業者が統一で掲げるシンボルを考案。改修した施設のブランドマークとして活用していく予定です。

書道発祥の地、奈良ならではのデザイン。
奈良県産の木材に包まれる和の空間
1988年創業の〈ホテルニューわかさ〉は、木材や伝統建築の技の美しさを味わえる内装に改修しました。
「奈良は神社仏閣に木材を使う、木の文化があります。木を使い、和のデザインを強調していくことで、特にインバウンドのお客さまにも喜んでいただけるのではないかと考えました」と話すのは館主の下谷さん。リニューアル後、改修を行った客室は予約がすぐ埋まる人気の部屋となったそうです。
カフェの新設で、新たな雇用を生む
近鉄奈良駅と奈良女子大学までを結ぶ通学路の一角にある旅館〈奈良白鹿荘〉は、1階部分のロビーを改修して和のオープンカフェ〈ハクシカフェ〉を開業します。
「大きなホテルのレストランやカフェは、宿泊客以外でも利用しますよね。それを旅館でもやろうというわけです」と話すのは、代表取締役の寺尾純さん。
寺尾さんは、もともと京都や大阪で小売業や飲食店経営などの事業を行ってきました。2年前に奈良白鹿荘の経営を受け継ぐことになり、初めて現地を訪れた際の第一印象は、「若い学生が毎日たくさん通って、活気がある場所」だったそうです。
「奈良市内にはいくつかの大学がありますが、京都と比較すると、学生がアルバイトできる施設は少ないと思います。そこで、英語でコミュニケーションがとれる学生を雇い、インバウンドにも柔軟に対応できるようにしようと考えました」(寺尾さん)

「アルバイト募集の告知を出したところ、さっそく学生から問い合せがありました」と、今後に期待を寄せる寺尾さん。

県産材を内壁に使用したカフェ。
学びのプログラムも充実させ、市内の滞在時間を伸ばす
実証実験として、奈良での滞在時間を伸ばすことを目的とした早朝・夜間の周遊を促す取り組みや、奈良公園周辺の歴史や魅力に深く触れてもらう取り組みも行いました。
そのひとつが「奈良SDGs学び旅」というプログラムです。寺社仏閣や文化財、催事や儀式などが途切れることなく1300年続き、まさに持続可能な社会を体現している奈良を教材にSDGsを学ぶというものです。副組合長の川井さんが実行委員長となり、奈良教育大学、奈良県、奈良市、奈良市観光協会などからなる産学官民連携の「奈良新しい学び旅推進協議会」を立ち上げ、令和3年度の事業でプロモーションなどを行ってきました。
プログラム造成の中心となっている奈良教育大学は、長年国内の最先端でESD(持続的な社会のための教育)に取り組んできました。
「奈良新しい学び旅推進協議会」事務局の太田原章巨さんは、「『奈良SDGs学び旅』は、奈良教育大学の先生による講義のあとに、少人数のグループに分かれ、ガイドとともに120分のフィールドワークを行います。2021年7月に開始以来、参加者から大変好評をいただいており、2022年度末までに54校・4702名の方にご参加いただく予定となっています」と話します。

「東大寺の大仏様の建立にまつわるエピソードには、地球の環境すべてを守ろうという現代のSDGsの考えに通じるものがあります」と太田原さん。

フィールドワークには東大寺をはじめ、ならまちや春日山原始林コースがある。
マニュアル化されないサービスも価値のひとつ
今回の事業をきっかけに、あらためて古都における観光業が目指すサービスのかたちも見えてきました。
「奈良公園周辺は昔ながらの小さな土地区画が多く、また景観条例のため建物の高さ制限もあり、高層階の大きなホテルをつくることが難しいエリアです。組合にはさまざまな規模の宿泊施設の組合員がいますが、それぞれお客さまの立場に立ち、心からのおもてなしを行っています。このマニュアル化されない素朴で温かいサービスが、奈良の良さのひとつでもあります」(下谷組合長)
奈良のまちに連綿と紡がれる、歴史やストーリーの価値を高める取り組みは今後も続きます。

「奈良がどんなふうに変わるのか、楽しみにしてほしい」と意気込む下谷さん。
text:ヘメンディンガー綾 photo:衣笠名津美
取材日:2023年1月24日-25日