「サステナブルツーリズム」で千年後の地域を守る
熊本県阿蘇市
九州地方 熊本県阿蘇市
熊本県阿蘇市の内牧温泉エリアでは、阿蘇市が旗振り役となり、令和3年度の「既存観光拠点の再生・高付加価値化推進事業」にチャレンジして採択されました。その結果、いくつかの目に見える成果が得られ、同エリアで成功したモデルを阿蘇市全体に広げる動きも出てきています。
今回は、阿蘇市経済部まちづくり課の石松昭信課長をはじめ、本プロジェクトに関わったみなさんにお話をうかがいました。

阿蘇前駅から見た景色。正面に見えるのは阿蘇山。
宿泊者数・滞在日数が少ないことが課題
阿蘇市は、火山による世界最大級のカルデラ地形や千年前から続く国内最大の草原など、多彩な自然環境に恵まれ、独特の景観を有しています。阿蘇カルデラを軸とした教育・観光活動や、草原の活用による循環型農業にも取り組んでおり、持続可能な観光地の国際的な認証団体「グリーン・デスティネーションズ」より、世界の持続可能な観光地トップ100に2021年から2年連続で選ばれました。
観光地として注目される一方で、阿蘇は宿泊者数が少なく、宿泊する場合でもほとんどが1泊のみの短期滞在であるという課題を抱えていました。その要因について、石松さんは次のように分析します。

阿蘇市経済部まちづくり課課長の石松昭信さん。阿蘇で生まれ育ち、阿蘇の地域・観光振興に20年以上携わっている。
「内牧温泉は、120年以上前の開湯から多くの文豪に愛され、現在も多くの公衆浴場や宿泊施設が集積しているエリアです。阿蘇駅からバスで15分弱とアクセスが良く、40軒近い飲食店もあり、阿蘇名物である「あか牛」の名店や昭和レトロな居酒屋などが好評です。
しかし、温泉街としての景観や情緒に乏しく、ブランディングができていないこと、“内牧温泉に泊まる理由”を旅行者に明示できていないこと、そして何より、“質の高い宿泊施設が少ない”ため、高単価の観光客が泊まらないエリアでした」
そこで石松さんが考えたのは、『地域まるごとサステナブル滞在拠点化計画』でした。
阿蘇に根づく「サステナブル」
『地域まるごとサステナブル滞在拠点化計画』とは、「サステナブルツーリズム」というキーワードのもとで地域全体を巻き込み、内牧温泉のみならず近隣エリアへ周遊する際、内牧温泉エリアの宿泊施設を滞在拠点にしてもらうための計画です。
具体的に「サステナブル」を意識して動き出したのは、遡ること10年前。平成25年に、溶岩流によって生まれた「溶岩トンネル」のツアーを企画したことがはじまりだったと石松さんは言います。
「溶岩トンネルは地元の牧野組合が管理している草原の中にあり、普段は立ち入ることができません。そこで組合と交渉し、草原に立ち入らせてもらう代わりに、観光客の体験料金のうち何割かを還元する取り決めを交わしました。その還元分を、草原保全活動のために活用するのです」

千年前から続く雄大な草原。あか牛や馬などが放牧されている。
阿蘇の草原は自然に生まれたものではなく、人が手を入れることによって保たれてきたもの。こうした資金の流れをつくることで、草原保全に観光を役立てる基礎ができました。これが阿蘇サステナブルツーリズムの原点でした。
とはいえ、実は、阿蘇にとってこうした発想は珍しいことではありません。阿蘇では、そもそも千年前から、毎年春に行われる野焼き(※草原に火を放ち、枯れ草などを少しずつ焼き払うこと)によって美しい草原を維持してきました。
「千年の草原を維持・活用してきた阿蘇の人々にとって、”サステナブル”は新しい概念ではなく、長い時間をかけて当たり前に積み重ねてきた営みを、現代の言葉で言い換えたものにすぎません。だからこそ、「地域まるごとサステナブル滞在拠点化計画」は、地元に自然に受け入れられました。

「訪れた人に楽しみながら阿蘇のことを理解してもらい、地域も活性化され、草原保全にもつながる『三方良し』の考えでツーリズムをつくり、世界に発信していく」と石松さん。
個々の宿が長所を伸ばす、内牧温泉エリアの高付加価値化
プロジェクトを進めるうえで、阿蘇市と宿泊施設とのつなぎ役になったのは、阿蘇市内の宿泊事業者が共同出資して設立した阿蘇温泉観光旅館協同組合で事務局長を務める松永辰博さん。松永さんは、本事業について説明を受けた際、ふたつ返事で手を挙げたといいます。

阿蘇温泉観光旅館協同組合事務局長の松永辰博さん。
「お宿さんにとってはもちろん、地域にとってもプラスになることですので、ぜひ協力させてくださいとお返事しました。私の役割は、組合に加盟しているお宿さんにこの事業を紹介し、お宿さんからの質問に対する受け答えやサポートをすることです。事業コンセプトとお宿さんのやりたいことを照らし合わせて、『それはこの事業には合わないんじゃないか』『それならいいんじゃないか』という細かいやり取りをして、石松課長とお宿さんの目線を合わせるんです」
その結果、内牧温泉エリアの6軒の宿泊施設が本事業に申請。阿蘇市の計画は採択され、高付加価値化改修に取り組みました。
内牧温泉エリアは、10部屋ほどのコンパクトな施設から200部屋以上の大規模施設まで、幅広く宿泊施設が点在し、多種多様な宿泊客のニーズに応えることが可能です。「個々のお宿さんが長所を伸ばし、上質化することで、内牧温泉エリア全体を引っ張り上げることになる」と松永さんは語ります。

内牧温泉商店街。こだわりのあか牛を食べさせる飲食店やスナックなどが並ぶ。
宿泊単価を2倍に
内牧温泉エリアで約70年の歴史があり、与謝野晶子・鉄幹夫婦ゆかりの旅館でもある〈蘇山郷〉は、昨年度の事業で、宴会場を2部屋のスイートルームに改修しました。
もともとあった宴会場は、ステージを含めると100畳ほどの広さがあり、かつては修学旅行客や老人連合会などの団体で賑わっていたといいます。しかし、団体旅行の減少や平成24年の九州北部豪雨の被害による大改修などを経て、少しずつ個人型の旅館へと業態変更していくなか、コロナ禍で宴会需要がなくなり、いよいよ倉庫として利用されるようになっていました。

改修したスイートルーム「花門・木守」。インルームダイニングと露天風呂付き。窓からは外輪山を臨める。
館主である永田祐介さんは、「上質化の際にまずこだわったのは、広さでした」と語ります。
「阿蘇にはこれまで、100平米以上の部屋がほとんどありませんでした。しかし、富裕層の方々は部屋の広さを気にされます。自分の家より狭い部屋に泊まりたいと思う方はいませんから。ですので、80平米を超える、ひと目見て広さが印象的な部屋というコンセプトで改修しました。加えて、お客さまがゆっくり自由にお食事できるインルームダイニングをこしらえ、専属スタッフ(バトラー)がサーブするようにしました」

〈蘇山郷〉3代目館主の永田祐介さん。
スイートルームの宿泊費は、1泊5万円。改修前の蘇山郷で最も高い部屋は1泊2万5千円でした。宿泊単価を倍にする上質化を実現した結果、以前よりも少ない客数で売り上げが立つようになりました。従業員も少ない人数でオペレーションを最適化できるようになり、生産性が大幅に向上。その結果、改修してから6か月が経過した取材時点で、売り上げは過去最高を更新し続けています。
「これまで阿蘇に来ても宿泊していなかった富裕層のお客さまが、改修後にはうちに泊まられるようになりました」
阿蘇でしかできない特別な経験を
一方、ソフト面で取り組んだのは、上質化した宿に滞在することで楽しめる阿蘇ならではのアクティビティの拡充です。
阿蘇はもともと、草原を利用したアクティビティ体験を提供していました。ラペリング(ロープを使って岩場の壁面を降りること)、アドベンチャーサイクリング、トレッキング、夜の焚き火ツアー、乗馬、パラグライダー、ヘリコプターによる火口見学など、その内容は多種多様です。なかでも、非日常的な体験ができるとして、草原のトレッキングやEバイク(電動アシスト付きマウンテンバイク)を利用したサイクリングが特に人気なのだといいます。

Eバイクを利用してのアドベンチャーサイクルの様子。
「参加者がアクティビティを通じて、お住いの地域など、地元にも目を向けるきっかけになればいいですね」と語るのは、阿蘇の魅力を伝えるプロガイド集団〈あそBe隊〉の薄井良文さん。
昨年度の事業では、これまでのアクティビティツアーに新たな内容を盛り込んでバリエーションを増やし、約600人のモニターを無料招待する実証実験を実施しました。その結果、問い合わせやSNSでの言及が増え、阿蘇のアクティビティの認知が向上。草原保全の取り組みについての理解も広まりました。
ほかにも、SDGsの学習・体験モニターツアーや、周遊型のバスを運行し、公共交通機関が通っていない観光名所である「大観峰」までアクセスできるようにするなど、まち全体で「阿蘇=サステナブル」というブランドを前面に押し出した取り組みを実施しました。
長年にわたり話合いを重ねた、協議会の存在が奏功
令和4年度の事業でも採択された阿蘇市は、内牧温泉エリアで成功した試みをさらに阿蘇市全体に広げようと取り組んでいます。参加事業者数は34(宿泊施設17軒、観光施設12軒、廃屋撤去5軒)。このなかには、昨年度は手を挙げられなかった内牧温泉エリアの事業者や、蘇山郷のように昨年度に続き2回目のチャレンジをする事業者も含まれています。また、地元の金融機関も巻き込み、資金調達や事業計画の助言などを行える体制も整えました。
こうしてまちをあげた取り組みができるのは、「阿蘇カルデラツーリズム推進協議会」という座組みと長年の実績があるからだろうと石松さんは言います。
阿蘇カルデラツーリズム推進協議会は、観光地における新規市場の開拓および多角化に向けた実証調査を行うことを目的として、令和2年に設立されました。阿蘇市観光協会、阿蘇温泉観光旅館協同組合、道の駅を運営するNPO法人ASO田園空間博物館、一般財団法人阿蘇テレワークセンター、阿蘇市商工会など、観光に関連する主要なプレイヤーが参加しており、本事業の受け皿にもなっています。
「みんな理解者ですから。日頃からの信頼関係はあったと思います」

阿蘇カルデラツーリズム推進協議会を中心とした体制図。(画像提供:阿蘇市)
「まちのどんな特徴を核にして、どんな将来像を描いていくか、明確なビジョンがないとテーブルには乗りません。個別の宿泊施設の改修はもちろん重要ですが、その先にある、地域の目指すかたちを導き出すことがもっとも重要だと考えています。阿蘇の場合は幸い、これまでやってきたことやこれから実現したい目標が具体的で明確だったこともあり、地域のみなさんに賛同していただけました。今後もサステナブルツーリズムを推し進めていきます」と話す石松さんは、次の千年を見据えます。
text:山田宗太朗 photo:石阪大輔
2022年10月31日-11月1日